すべて真夜中の恋人たち/川上未映子

群像 2011年 09月号 [雑誌]

群像 2011年 09月号 [雑誌]

巻頭掲載『すべて真夜中の恋人たち』

読み終えて、川上未映子が次になにを書くか、さっそくとても楽しみになった一編だった。
だがそれは、この作品が自分好みのお気に入りだったからではないし、抜群の完成度を持つ傑作だと思ったからでもない。
ただ、多くの作家の処女作が持っている、整理されきらない、不定形であやういものを、
デビュー2作目で芥川賞を受賞し、間違いなく、現代文学の書き手の中でも知名度・人気ともに高い作家の最新作に見たからであり、
さらに、その不定形なものの正体は、今まで見たことのない、体験したことのない文学世界なのかもしれなくて、
その片鱗をこの作品に見た気がしたからなのだった。


そこに並べられている文字列が、どんな物語で、いったい読者に何を喚起させるか、ということにおかまいなしに、その文章に誤りがないか、文章から意味を剥ぎとりひたすら精査していく校正という職業から想像されるほとんどその通り、「わたし」という一人称で語られる主人公・冬子の生活はつつましく、娯楽もない、何か欲望に振り回されることのない静かな生活を送っている。
冬子は所属していた出版社から独立し、フリーの校閲者になる。そのきっかけをくれた同年代の同業者・聖は、冬子と対照的に、美しい容貌と明晰な頭脳で、ふんだんに生を謳歌している。
あまりに対照的な二人だが、聖は冬子の確かな仕事ぶりを気に入り、冬子も聖を拒絶せず、奇妙な友情が成立する。
聖の圧倒的なエネルギーに出会い、自らの人生を浮き彫りにされたかのように、ある休日の街中で「哀れという言葉がいちばんぴったりとしている」自分の姿を見つけた冬子は、次第にアルコールに溺れるようになる。
酩酊のなか、薄い興味がわいて参加してみようと思ったカルチャーセンターで、冬子は三束という男と出会い、二人の奇妙な関係がはじまる。

著者初の長編小説『ヘヴン』で、川上未映子はそれまでの作品に共通していた、関西弁を用いた特徴的な文体を使わず、フラットな、多少ぎこちなささえ感じさせる透明な文体を使用した。
今作も、『ヘヴン』同様「わたし」という一人称形式を用いながらも、語り手の冬子の性格を表しているかのように、淡白で落ち着いた語り口で物語が紡がれていく。

冬子の三束への恋慕が物語の中心になっている点では、タイトルから連想される通り、この作品を恋愛小説だと言っても良いのかもしれない。
また、恋愛だけではなく、女性が社会で生きていくことについて、異なるタイプの同年代の女性を複数登場させ、彼女たちの価値観を語らせていることから、
女性による女性の心理をこまやかに描いた小説といっても、間違いはないだろう。
とくに聖という女が、女性が社会で生きていく時の身振りについて、当の女性がそれを認知し、どう女性性を引き受けていくか、怒りを以て酒場で語るその内容には、著者の人間観察の冷静さとフェアネスを感じるし、
その強者の理論の強度と痛快さもさることながら、それをメタ化せず、聖を否定する恭子さんという別の強者を対置させ、いっぽうでそれが弁証法に陥らないよう「同じ香水」というモチーフを使い天秤を中吊りにする操作には、物語の奥行きを深める以上に、著者の倫理観の誠実さが現れているように感じられた。

だが、そうした要素を感じてもなお、この作品を読んで、川上未映子の作品の本質は、その高度な「倫理観じゃんけん」の才能にあるのではなく、彼女の作品が持ち続けてある態度にある、と思わされた。
そのきっかけは、この作品のまさしくその人物造形の「貧しさ」に依る。



たとえばリディア・デイヴィス『話の終わり』

話の終わり

話の終わり

では、恋人を失った主人公の苦しみが、実際には書かれた時間と書いた時間には大きな隔たりがあるにもかかわらず、たった今生起しているような、あるいはきわめて近い過去に起こったような鮮烈さでもって描かれ、苦痛に酩酊し時間間隔が麻痺するような感覚がもたらされたが(常の酩酊時なら、空間認識や感覚が麻痺するところ、やはり異様な作品だろう)、
この作品は、『話の終わり』と同様に「わたし」という一人称を持ちながらも、すべてが終わった後に、終わった時点から他人となった自分を観察するような冷静さと、感情のめまぐるしい動きがある程度整理されてしまった印象を受けるのは、整理されきったフラットな文体や、本編のほとんどが回想形式で語られる、という構造のせいだけではないだろう。
自分の存在をまるごと承認してくれる人間を見つけ、それい自分の思いのすべてを捧げるも、やはりそれは幻想であって、思い破れ、傷ついたけどたしかに得たものもあった…という女性の行き方を描いた作品というのはこれまでにいくつもあって、まあそれは確かに現実世界でリアリティのある設定で多くの人が共通の経験を持つからそうした物語がいくつも作られるのだが、
この作品をそうした「女性の人生のある一地点」をある感情ーー共感でも、反発でも良いのだが、心の動きみたいなものーーをもって描いたものだと考えると、まったく不完全で面白いものとは思えなくなる。

というのも、そうして見た場合、冬子という人物はあまりにもその生活の淡白さ、自発的な意志の薄さ、初体験の悲惨さにいたるまで、すべてが典型的すぎる。
冬子だけではない、聖の攻撃性と魅力、恭子さんのしたたかさ、三束の冬子の発言を受け止めあるいは流すその手つき、野暮ったさ、すべてが、
(これは倒錯した表現になるが)まるで物語の登場人物のよう、すべてに存在する意味があってしまうのだ。
人間の心理を描いた近代小説が、ある程度のノイズをまみえて人物を描写することで、そのノイズが透明になった瞬間普遍的な(もちろん普遍にも賞味期限はあるだろうけど)人間らしさが見えるような手法を用い、それによって様々な感動的な物語が生まれてきたが、
そうした作品たちとともに考えてみると、『すべて真夜中の〜』に登場する人物は、あまりにも還元するノイズが極端に少なく、パラメータに忠実すぎるように感じてしまう。
あるいはこれが脚本であれば、演者の身体、あるいは個々のキャラクターを縁取る描線が非本質的なノイズを担保するが、言葉のみで構成された小説においては、それが描きたいことであるならば、すべてが構造に回収されるような設定は貧しいと思わざるを得ない。

では、一見独身女性の生活と精神の成長を一人称で描いたように思えるこの作品が、本当はなにを書いているのか。

三束の誕生日、理想的な恋人同士のようなシチュエーションで食事をし、自らの孤独を三束に打ち明け、三束に触れたその夜、
聖の、ある種下世話で身も蓋もない、寝る/寝ないの二項対立の価値観によって、冬子の恋愛は全否定される。
冬子の思いを知っている読者からすれば、粒子のふれる/ふれないこそが冬子の恋愛のすべてであり、そこには瞬間と不在しかないのだから、
聖の苛烈な口撃は取るに足らない言いがかりであるはずなのだが、まさしくその、いまこの瞬間しかない恋愛というものの残酷さのすべてを冬子は感じ、慟哭する。
冬子は、三束との関係ではなく、聖の論理に打ちのめされたのでもなく、冬子自身の論理に気づき、恋愛が始まる前にその終わり/不在を自覚してしまうのだ。
この一連の流れは間違いなくこの物語のクライマックスであり、鮮烈で美しいモノローグが展開されるシーンではあるが、
触れられないものの存在に気づいてしまう冬子の慟哭は、恋愛感情というよりも、時間や記憶、粒子、すべての「それ自体」の存在への思慕の念だったのではないだろうか。

そう考えた時、とくに人物造形が典型的なことについて、この作品はそれを現実らしく、本物と錯覚するように描く作品なのではなく、
正真正銘ほんものの、文字の間にはあらわれない「それ自体」の存在にアプローチするという、不可能な目的のための、機能としての人物、人間関係なのではないかと合点が行った。

そして、物語の最後にあらわれる「目的のない、なんのためでもない」と冬子が思う「すべて真夜中の恋人たち」という言葉は、その「不可能なもの」の影だったのではないだろうか。
言葉を用い、物語を操作し、人物を駆使しながら、小説のラストで、言葉で書き表せない、何にも置き換えられないものそれ自体につかの間触れる瞬間を描く。
すべてが、この「不可能なもの」あるいは「それ自体」に触れるための道のりなのだとしたら。言葉でもって、言葉の届かない美しさ、あるいは言葉それ自体に、ようやく、触れる。そういう試みがなされていて、物語がまるごとそのために使役されているのだとしたら。
ひかりや、何百年も前に書かれた音楽。物語のなかで、それ以上言葉で代替できないような道しるべを置きながら、主人公の冬子ではなく、作品そのものがある絶対的なものへ近づこうとするその運動の、軌跡としてではなく現前として作品があるような不思議な感触をおぼえた。
背の高い電球に、椅子、お菓子の空き箱、掃除機、百科事典、大きなかばん、なんでも積み重ね、つま先立ちをして、触れようとしているような。


そしてまた繰り返しになるが、この作品は傑作ではないと思っている。
すべてが典型的に思えたとしても、冬子の、あるいは聖の思考や言動にリアリティがあり、同年代の女性として素朴に「わかるわ」と思えるところがある以上、きっともっと自然なーーノイズ混じりの「いかにも自然らしい」ーー人物造形が可能であると考えられるし、それが不定形なものを保持し続けることの妨げにはならないと思うからだ。
ごく自然な詐術である近代文学的リアリティと、読んでいる間にだけ起こる、まぎれもない実践そのものの、分かちがたい混淆。
それが、いつか川上未映子の書いたものの上で成り立つかもしれない。
今まで誰も読んだことのない小説として。

進化でもなく、変化と呼べるのかもわからず、だが確実にこれまで書いたものと軌を一にする、だけど作品のたびに太くなっていくと、
そう信じて川上未映子の作品を楽しみに待てるのかもしれないと思った。