あかりの湖畔

あかりの湖畔

あかりの湖畔

読みながら、思わず目を眇めてしまうほど、湖畔に落ちる木漏れ日や陽を透かす緑がまぶしく、
だが豊かな描写のなかに溺れつつも、照りつける日差しやむせかえるような草いきれに息苦しくなることがなかったのは、舞台が湖畔だったから、だけではない気がした。

温泉街を見下ろす山奥の、湖畔のほとりにあるさびれた土産物屋兼食堂の「お休み処・風弓亭」。
父にかわり風弓亭を切り盛りする長女の灯子、山を降りた洋食屋でアルバイトをしながら、女優にあこがれ東京へ上京する予定の次女の悠、末っ子で高校生の花映。
風弓亭の三姉妹と、その周りの人々が、風弓亭に訪れる季節の移り変わりとともに描かれる。

主人公の灯子に寄り添い、その時々の心情を直接的に語らせながらも、時折画面を引いて灯子に見えないものを描く描写は、
一枚薄い膜をへだてたかのように、描かれるものとの距離を感じさせる。
青山七恵の特徴であるその微温的な語りの手つきによって、能動的で情感豊かな風景描写が、軽やかに読み進められた。
この風景が毎朝届けられるのを楽しみにしていた読者も多いだろう。

作中人物と絶妙に距離を取る語りは、描写というものがまず何かを見る/見ないから成り立つことを思い起こさせる。
やがて、その描写と同じように、物語も見ること、見たことにフォーカスされていく。
風弓亭まわりの人間が、温泉街の人間から「天上」と揶揄されるほどの快適な湖畔での生活のなかで隠し育んできた「秘密」が明かされていくのだ。

「見る」ことに特化した文体が、偏執的なまでに隅々まで細部を描写する語り方になってしまうのはよくあることだが、
青山七恵の作品の多くには、非対称的な「見る」の関係が描かれているにもかかわらず、そのように対象のアウトラインを露骨に舐めまわすような描写が見られない。
そこでは、なにかを見ることで、またそれを描写することで、見られる対象に近づこうとする欲望よりも、
見るものの身体、あるいは見るものと見られる対象のあいだに結ばれる関係こそが描かれている。

この作品の主人公として多くのものを見る灯子の周辺にも、ゆるやかに、しかし確実に変化は訪れていく。
それを先取りする形で受け入れるかのような物語の結びは清々しく、凛としてうつくしい。



それから、2012年1月号の『文學界』に掲載された「すみれ」もそうだったが、この人の描く少女が、とても面白い。
15、6歳の少女の不安定さが、早熟なコケティッシュさや甘いノスタルジーにひたることなく、均整の取れていない姿そのままで描かれる。
「すみれ」の主人公・藍子はデザイナーと編集者の両親のもとに生まれ、なに不自由なく育ち、高校受験を控え模試や推薦入試の結果に一喜一憂しながらも、
両親の友人で藍子の家に居候している、エキセントリックで、およそ大人らしくない大人の友人レミちゃんに「あたし、当たり前の幸せなんか、いやだ……」とつぶやく。
その雑な一般化や、「当たり前の幸せ」を享受する人のなかに藍子の両親が含まれていることに、恵まれた少女らしい視野狭窄を見て取ることもできるのだが、
同時に伝わる恥ずかしさや心細さに、「ほんとうの愛らしさ」のようなものを感じてしまった。
『あかりの湖畔』では、三姉妹のうちもっとも早くその秘密が明かされる花映だが、前触れのほとんどない中で唐突に、歳のわりに朴訥として、天使のような印象の少女が隠していた事柄とふるまいに、驚きと、生身の16歳の花映という存在がやっとあらわれたようなリアリティが迫ってきた。
自意識に基づいた圧縮された女性性を投影することも、逆に若さという絶対的他者による脅威として描くこともなく、
いびつな不完全さをそれそのものとして描くことで、アンバランスながら読むものに生身を感じさせるひとりの人間として存在させる。
青山七恵の物語の少女たちは、彼女の作品の根底に流れる姿勢を象徴した姿で描かれているのかもしれない。