私のいない高校

私のいない高校

私のいない高校

これが「藤村先生」第一号、担任に向けた初の宛名書きだった。

私たちは小説を読むとき、どんな小さな物語でも見過ごすことはない。
すれ違いひとつ、目配せひとつ、因果の結べそうな2つの点が見つかるや否や、それを線でつないで物語を作ってしまう。
むしろそれが小さければ小さいほど、反比例するように存分に物語を味わうのではないか。
想いの発露はセックスよりも手をつなぐことで、ありったけの愛の言葉で告白するよりも沈黙で、より普遍的な価値を帯びる。
最小が最小であるがゆえに最大であるような価値観は、具体的な表現作品を挙げることなく自明に存在しているだろう。

読む者を物語に没入させる依代は、そこで描かれる人間、あるいは人間的なものがほとんどである。
砂漠のように、読者を描かれている世界へワープさせる潤いー適度にドラマティックなで、適度に普遍的な物語ーがほとんど枯れた『私のいない高校』を読むとき、それでも私たちはわずかな水分を啜ろうともがく。

『私のいない高校』では、カナダからの留学生を迎え入れた千葉県の高校の、春から夏までを中心に描いたものだ。
読みはじめてしばらく過ぎたところで、おそらく読者はじわじわと違和感をおぼえ、
そしてページを繰るごとに、その違和感は強まっていくだろう。
やがて明かされ「そう」な謎めいたモノローグや意味深な行動、あるいは人物の細かい心の襞、かけ離れたもの同士の抽象的な相似あるいは対称、
そういったものを欠いた物語が、まったく適切で、バランスの取れた、透明というにはいささか俗のほうに舵を切った平板な文体で描かれ続けることに、止まっているエスカレーターに、それと気づかず乗ってしまったような、自重でバランスを崩す時の感覚をおぼえるだろう。

そしてまた、私たちは物語のそこかしこに、自分の実存的な経験を代入しようとする。
近代文学私小説と言われるジャンルが、いかに著者=語り手=主人公の錯覚でリアリティを反復強化してきたか…と歴史に接続しなくとも、
素朴な実感として、そこで描かれるものに感情移入し、「私」を重ねあわせることは、作品受容のもっともプリミティブな方法のひとつであることは、誰しも覚えがあるだろう。
この作品ではどうか。雑な言い方をすれば、この国の少年少女は、たいてい高校に進学する。
物語のそこかしこで、受け止められたかすら不明な、だれもいない校舎に響くような声や、喧騒の具合は、いつか私がいた高校の、言葉で表すよりもっと現前に近い存在まるごとを思い起こさせる。
そういえば、劇的なことなど何一つ起きなかった、だけど確かに過ぎていった日々は、こんな風じゃなかったかー
と、この書き方、極度の物語性の低さに、逆説的にリアリティを感じることもあるかもしれない。

つまり、物語を嗅ぎつける習性を縦糸に、物語を「これを読んでいる私」へひきつけていく習性を横糸に、読者は『私のいない高校』を読み進めていくしかない。そうでなければ、見知った小説のフォーマットをはずれたこの作品をそのまま受け止め読み続けるのは難しい。


小説冒頭のエピグラフで引用された【ブラジルの碑、平和へのメッセージ】の一場面は、
この小説のなかでも、最もドラマティックなやりとりだろう。
修学旅行で訪れた長崎平和公園で、自身の生まれた国であるブラジルの石碑の写真を撮るため、カメラを取りにバスに戻りたいというナタリーと、時間がないとそれを却下する担任・藤村。(しかし、この場面ひとつを要約しても、なんと煩雑な文脈のあることだろう。)
物語性の極度に薄い文章を読まされてきた読者にとって、見知った物語構造の現れるこの場面は、物語の欠落という不可解さを味わってきたこれまでの時間を保証するかのような濃密さで、読者に迫ってくるだろう。
帰りの車中、「背中で拒絶する」ように「一度も振り向かな」い担任の姿は、まるで感情を殺し崇高な職務をまっとうする、ハードボイルド小説の主人公のそれである。
だから、物語終盤、ナタリー・サンバートンから担任藤村に、宛名入りの手紙が送られた時、はるか時空を超えて恋人から手紙が届いたような、あるいは登場人物たちを恐怖に陥れた殺人鬼の正体が名探偵によって明らかにされたようなカタルシスが得られたのではないか。
あの長崎での亀裂は、この手紙のためにあったのではないかと、点を結びたくなってしまう。

だがこの小説は、そうした「引き算の美学」の物語を見せるものではまったくない。
小さく濃密な有為な意味のために、文字を費やし無為で茫洋な時間を設定したのではない。
あるいは、読者の大半が持つ固有の(その内のたいていは16〜18歳に限定された)記憶を共振させるための装置ではない。


この小説が真に面白く、また親切であり、誠実であり、コンセプチュアルであり、それまでの文章の意味を変える意味を持つのが、
物語の終わったあとに付される【人名、登場順】と題された登場人物一覧である。
そこでは、ナタリー・サンバートンや藤村雄幸はもちろん、小野伸二宮沢賢治坂本龍馬華原朋美など、
この小説とは違った意味でフィクショナルな存在、またナタリーの日本語表記「名取山鳩」「名取山波堂」まで、出てきた時期に沿って列挙される。
ちょうどこのはてなの日記の末尾の「カテゴリ」のように、暴力的なまでのレイヤーの一括統合。

そう、いつか「私」がいた高校のように思え、「私」も一員であるかのように思えたこの高校に、「私」はいない。
なぜならこの高校は、紙に印刷された言葉で紡がれた虚構の存在だから。
日本史の教科書や、いつかテレビの中で観た、あの存在と同じ、まったきの虚構であるのだ。

もしもこの小説を電子書籍になった暁には、最後の人物一覧をカテゴリとして、登場する文中にジャンプできるようにして欲しい。
その時、この作品は一字一句も変えることなく、今見えているものとはまったく違った相貌を見せるだろう。