こちらあみ子/今村夏子

金井美恵子の小説において、口の中で起こる食物と発語の争いについてーその領土問題は、ふたつが決して同時に行えないことから起こるのだがードゥルーズを援用しながら明晰に分析していたのは芳川泰久だったが、
太宰治賞、そして三島由紀夫賞を受賞した今村夏子『こちらあみ子』を読んで、久しぶりに小説における口腔の問題を思い出した。
すぐれた作家の、とりわけ初期作品においては、「なぜものを書くのか」という問いが、直接的であれ間接的であれ、内包されている。
それはしばしば「ことば」の存在そのものについて、われわれが考えざるを得ないような形を取る。
『こちらあみ子』は、間違いなくそうした「ことば」の小説である。
それから、野蛮な魔術的リアリズムの小説であり、そしてまた、相当な技術のある、手練れの書いた小説でもある。


こちらあみ子

こちらあみ子

物語は、現在祖母の家で暮らす主人公あみ子の、かつて家族4人で暮らしていた頃、そしてそこを離れるまで、の生活が中心となっている。
そこで現れるモチーフは、書道、名前、歌、唾液、歯、そしてトランシーバー。
色や感触が充溢する物語のはじまりとは対照的に、あみ子の回想時にあらわれる、彼女をとりまく世界は、象徴的で、間接的で、一方向的で、やがてあみ子は疎外されていく。
「父」以外の存在には、みな名前が2つあるのだが、あみ子は1つしか知らない。
他人の口や、習字のはじに添えられた署名が所属するそのもう1つの名前の世界には、あみ子は入れてもらえない。
あみ子にとってその世界は、耳というより目で感じられる世界であって、自宅の襖の隙間からのぞき見た書道教室のように、こちらから一方的に見つめるしかできないのだ。
そのため、断片化され歪曲された情報しか手に入れられないあみ子の行動は、彼女と周囲との齟齬を高めていってしまう。
その齟齬は裏切りにも近い形で、後から後からあみ子に知らされていくばかりである。
あみ子は、唾液のまぶされたクッキー、自衛のための歌、かつて味わった、共通の思い出の料理などでその世界にコミットしようとするが、当然あみ子の思った形では受け入れられない。

成長するにつれあみ子の世界から急速に離れていった、あみ子の熱愛する「のり君」は、
あみ子がそれまで世界からされてきたことをちょうど反転したかのような立場に置かれたとき、あみ子を殴る。
「好きじゃ」「殺す」の叫びあいは鏡を見るようで、やがて2つの点対称が180度回転してぴったり重なりあうように、
「のり君」はあみ子を殴り、あみ子はほっとする。
それはあみ子の口の中、固い歯を3本も折る大怪我を負わせるのだが、今まで口の外側、自分の外側で阻害されてきたあみ子に、
「のり君」が決定的な痕跡を残すこととなる。
だから物語の終盤、あみ子が「のり君」のもう1つの名前を、視認するだけではなく、(歯の欠けた)口の中で繰り返すとき、
それはあみ子にとって、幸福でも何でもない、むしろまたもや情報が決定的に遅れた状態で入ってきたことをあらわす場面なのだが、2つの世界がいっとき交差するような、痛みを感じながらも同じぶんだけの希望を感じるような感覚をおぼえた。

前述のあみ子とのり君の叫びあい、典型的な家庭崩壊の頂点に起きる出来事の、あみ子に巻き起こる感情と兄の行動の齟齬、あるいは片方しかないトランシーバーなど、ある観点からすればこれ以上ないほど象徴的で、構造がむき出しになっている、と思った箇所がいくつもあったが、そこが中心になっているのではなく、あくまで物語のなか、情動の爆発とともにあらわれることに、
非常に心を動かされた。

この作品を最後まで読んだ時、残酷さを残酷さとして引き受けることについて、かなり整理のつかない感覚をおぼえたが、
それは、あみ子につかず離れずの本当に絶妙な語り口によって情動を刺激されたことによって、なにひとつ決定ができず、足場のないところで否定したり肯定したりしているからだと気づき、あらためて恐ろしい作品だと思い知らされた。

このブログについて

基本的に、読み終えた作品について書きます。

自分が、書評やブックレビューだけではなく、作品について語るため、時には物語の初めから終わりまでをつまびらかにすることもいとわない文芸批評というものを読んでから、あらためて、そこで扱われた、自分にとっては未読の作品を手に取ることがよくあること、
未読の作品について、作品を手に取る前に書評を読み込むことはあまりなく、反対に読み終えた作品については、詳しく書いてあるものを見つけるたびにうれしくなること、
以上の理由から、新刊、最新号に掲載された作品であっても、物語の展開、結末について具体的に言及する可能性は充分あります。
推理小説や、構造そのものに驚きがあり、仕掛けがあるものについては、その都度配慮したいと考えています。